![]() |
元禄二年5月9日(陰暦)、松尾芭蕉が弟子の曾良を連れて松島を訪れる。往時をしのぶには月夜の出会いに限る。『おくの細道』の本文の冒頭には「松島の月まず心にかかりて・・・。」と記され、この紀行文に収められた曾良と芭蕉の俳句は63を数える。松島に生まれ松島に育っているからこそ、「月月に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月」である。芭蕉の月を詠んだ作品は多い。『おくの細道』には中秋の名月に「名月や 北国日和 定めなき」を敦賀で詠んでいる。筆者のふるさと・松島に遺された「千歳の記念」をしのんで、作品に記された「松島の月」を紹介してみたい。 |
![]() |
![]() |
|---|---|
| 「松島の西行戻しの松」より 2002、4、筆者撮影 | 『奥州名所図会』に画かれた奥の細道(東北歴史博物館所蔵)の挿絵:「東光寺」前 |
| 松尾芭蕉の書名として広く知られている『おくの細道』だが、初見は中世にさかのぼる。『奥州名所図会』によると、奥州藤原氏討伐のため文治年間に源頼朝が多賀城に陣を構える。そのとき平泉を目指して三方の道から大軍を率いて攻めたという。そのひとつが「奥大道」という公道で、もうひとつが「奥の細道」とよばれた古道である。近世になって仙台藩は奥州歌枕を整備し、「十符の浦」に至るこの古道を「奥の細道」とよんだ。中世における領主・国分氏と留守氏の境界に位置しており、仙台藩の宮城郡浜方・陸方の境界でもあった。現在地付近は宮城野区岩切「東光寺」前といわれている。紀行文には「かの画工に任せて辿り行けば、おくの細道の山際に十符の菅あり」と記されている。 |
![]()
| 南北朝時代(1350頃)宗久が『都のつと』に「多賀の国府にもなりぬ。それより奥の細道という方を南ざまに末の松山に行きぬ」と記した。他に文明18年(1486)『廻国雑記』に「おくのほそ道、松本、もろおか、赤沼、西行がえりなどいうところ所をうち過ぎて松嶋に至りぬ」と道興准后が記した。西行がえりは現在「西行戻しの松」とよばれ、東は金華山、西は船形山のほぼ中間地点に位置する。ここからの朝日と月夜は「風雲の中に旅寝するこそ、あやしきなるまで妙なる心地はせらるれ」そのものである。 |
| 古くから松島の月は有名だった。現在、瑞巌寺の学芸員を任せられている堀野宗俊氏は、『日本三景展』松島の月に記している。「・・・・名所・歌枕としての「松嶋月」は14世紀には中国まで知れ渡っていた。元朝の薩都拉(サツトーラ)の『雁門集』に「雄島煙波松島月」と記されている。・・・」筆者は許される限り、『おくの細道』の舞台に相応しい松島の月を収集してみた。 |

「松島の雪月花」仙台市・宝文堂所蔵 小圃六一画伯(岡山県)の代表作で 観瀾亭に記念碑が建てられている。 絵の左が「三交の松」といわれ、松と梅と桜がひとつの島から咲き誇るのである。現在のJR松島海岸駅前にあり、ほとんどの人が見落としている名所である。中央が雄島の雪景色、右が五大堂に上がる松島の月である。筆者撮影の「芭蕉宿から月」と同じ構図である。 |
一例ですが「松島の月」に感動した歴史上の人物を紹介しますのでしてください
。![]()
一 伊達政宗:仲秋の名月 寛永十二年(1635) 陰暦 八月十五日 68歳 観瀾亭
二 松尾芭蕉:上弦の月 元禄二年(1689) 陰暦 五月九日 46歳 熱田屋
三 正岡子規:真夏の十六夜 明治二十六年(1893) 七月二八日 26歳 観月楼
四 アイン・シュタイン:師走の十四夜 大正十一年(1922) 十二月三日 43歳 白鴎楼
五 昭和天皇:春の十三夜から満月 昭和三十年(1955)四月五ー七日 54歳 松島パークホテル