宮城の街道

  2-1 登米道 (登米伊達氏、仙台往還の一里塚) 京 野 英 一  www.malkyo.com/basyo/  2004.8.25発表

 はじめに・・・・・・。 ■ 一里塚一覧地図 

■ 北目町から根古までの一里塚地番 ■ 広渕から登米までの一里塚地番 

 登米町は、平成十六年(2004)で開府四百年を迎えたと伺いました。今から四百年前の慶長九年(1604)は、徳川幕府によって江戸・日本橋を起点とし、主要五街道に一里塚の整備が始められた年と記されています。

仙台藩でも街道整備が進められ、正保年間の国絵図によると仙台城下と北の要害のひとつ登米を結ぶ脇街道には、宿場間の里程と一里塚がはっきりと描かれております。又、天保年間には慈光院御上府の記録(里程)が『登米町史』に残されています。さらに、登米に至る宮城郡・桃生郡一里塚実測図(明治10年)も残され、宮城郡官有地台帳(明治43年)には一里塚の地番が宮城県公文書館に保存されています。

明治二(1869)年の廃藩置県に伴い、仙台藩から宮城県が誕生する明治4年には、登米町に水沢県庁が置かれたほどで、登米開府以来、仙台往還の道として藩内の重要な脇街道であったことがしのばれます。伊達家臣に限らず、数多くの旅人がこの道中を往来したようで、各市町の市史・町史には十箇所を数える宿場町の繁栄ぶりが記されています。

明治6年、明治政府は太政官布告として「全国緒街道の里程表示と標柱設置」を翌年3月末日まで大蔵省宛に提出を命じました。宮城県においては「仙台から小野を経て登米に至る街道」でした。まさに登米伊達氏往還の道筋が明治政府から大動脈として御墨付きに預かったのです。当時は日本三大築港として宮城県・野蒜港、熊本県・三角港、福井県・三国港の開発プロジェクトが実施されようとしていました。小野は仙台と登米の中間に位置し、野蒜港の表玄関でした。仙台から小野まで気仙道ですが、小野から広渕までは難所(檀振坂)を避け、石巻街道と交差する野蒜港の入り口(牛網を起点として鹿妻・小松経由で広渕を繋いだのです

これが東濱(ひがしはま)街道の新設となり、従来の気仙道と登米の手前まで重複するのです。後に野蒜築港は台風のため中止になり、昭和になって仙台港開発に変更されました。この東濱街道の2里地点が広渕、新田一里塚とよばれ、宮城県教育委員会発行の資料を含めて間違いと知らずに、通説として気仙道の広渕一里塚として紹介されてきました。■ 広渕から登米までの一里塚地番 

     
利府町赤沼一里塚(平成14年) 松島町長老坂一里塚(平成14年) 鳴瀬町上下堤一里塚(平成15年) 鳴瀬町根古一里塚(平成16年)

 これまで仙台から登米までの一里塚は、四百年の時を経てすべて失われたものと思われておりました。しかし筆者の調査によると、失われたはずの一里塚跡から現存する一里塚発見(下記4箇所の写真)を含め、連続して特定することができました。ここにその地番を報告し、再確認された一里塚と宿駅跡を後世に残したいと思います。そこには藩政時代の宿駅制度と街道の歴史が刻まれております。 

 登米伊達氏往還の道は、仙台城下から小野宿までは石巻街道と重複し、小野の追分から広渕、寺崎に至る気仙道を経て、柳津宿からは一ノ関街道をとおり登米宿に入りました。正保の国絵図に示された一里塚を仙台・北目町から連続して確認できたことで、近世の町割が形成された経緯などを知ることが出来ます。 具体的には、舟渡が設けられた位置や郡境も一里塚と無関係ではなく、江戸時代の宿場と街道が、日本橋の一里塚を起点として全国津々浦々まで図られたことが浮かび上がってきました。

 仙台藩の一里塚は極めて正確であり、人馬に頼った交通や物資輸送面にとっても、藩内の治安維持にも、大いに役立ったに違いありません。全国的に見ても単独の藩(仙台)が一つの県(宮城)になったところは珍しく、ほとんどの県は複数の藩が合併して出来上がったようです。一例ですが、隣県の福島県は「六郡」と会津藩に加えて、幕府領の信夫郡と伊達郡が合併して生まれました。岩手県は南部藩に県南の仙台藩五郡と津軽藩の一部を吸収して誕生しました。  

           
 
@奥の細道(仙台市宮城野区今市付近) A雉兎スウジョウの道(松島町七むじり坂) B遙かなる堤(柳津から登米の北上川堤防)

さて、登米伊達氏上府の道と元禄二年(一六八九)松尾芭蕉が歩いた「奥の細道」が重なる付近(仙台市宮城野区)から、松島を過ぎて平泉にかかる街道の表現は「みちのくの侘しさ」を最大限に誇張した点で特に注目に値するところであります。

『おくのほそ道』(素龍清書本)によると、

@岩切・今市橋付近は 「かの画工にまかせてたどり行けば、奥の細道の山際に十府の菅あり」と紹介されています。

A高城宿を過ぎてからの道は「人跡希に、雉兎(チト)スウジョウの行きかう道そことも分かず、ついに道踏みたがえて石巻という湊に出づ」と記され、仙台藩士往還の街道が道に迷うほど文字通り「雉や兎しか通らないスウジョウの道」であったのでしょうか。

B石巻を過ぎると「袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遙かなる堤を行く。心細き長沼に添うて」は、通説である「合戦谷沼」より柳津宿付近・「柳津堤(〆切沼)」の情景がふさわしいかも知れません。(以上の3項目については改めて詳しく紹介したい)

心細き長沼に添う(干拓された柳津堤の中央付近)風景のひとつ 柳津堤(〆切沼)は南北に流れる北上川に注ぐ大きな堤(奥州仙台領国絵図) 小川の渡し(小川橋)は、南北約50メートルほどあった。
登米の渡し(「曽良の日記」にある2つ目の渡し・日根牛)

 

筆者は、仙台市、松島町、登米町を何度も往復し、松尾芭蕉の同行者・曽良の随行日記と『登米町史』の「慈光院御上府」の双方を比較しながら『おくのほそ道』を辿ってみました。仙台藩には芭蕉が宿泊した白石、仙台、塩釜、松島、石巻、登米、一ノ関、岩出山に至る街道(奥州街道、塩釜街道、石巻街道、一ノ関街道、上街道)が現在まで残されてきたのです。20里に及ぶ一里塚が連続して明らかになった街道は全国でも数少ないと思います。(政令指定都市・仙台の街道起点や一里塚特定も含んでいます。)

四百年前の古道を尋ね、知らぬ道に迷う時、河南町には一里塚標柱がすべて設置され、桃生町には「寺崎宿駅跡」の標柱が残されていたことに、改めて感謝の拍手を贈りたいものです。鳴瀬町、河南町、桃生町、津山町、登米町はそれぞれ平成17年度からは市町村合併により東松島市、石巻市、登米市とよばれます。残された宿駅調査は今後の研究課題といたします。 

         

 
和渕宿駅の高札場絵図『わがまち河南の文化財』より。左側は北上川の舟渡。  『わがまち河南の文化財』より 広渕一里塚と御会所(桃生郡代官所)、御蔵。『文化財』より。わがまち河南の文化財』より。

右上:天和元年(1681)「武田伊右衛門屋敷絵図」宮城県図書館所蔵     左上「広渕村絵図」明治5年ごろ。宮城県公文書館所蔵

参考文献:奥州仙台領国絵図(仙台市博物館所蔵)、宮城郡、桃生郡一里塚実測図、宮城郡官有地台帳(宮城県公文書館所蔵)、『登米町史』、『津山町史』、『桃生町史』、『河南町史』、『鳴瀬町史』、『松島町史』、『利府町史』、『仙台市史』、宮城県管内法務局の旧公図と土地台帳、「御領分分限全図」(登米懐古館所蔵)『歴史の道調査報告書』(宮城県教育委員会)『日本歴史地名大系4』宮城県(平凡社発行、明治一七年測量巻末付図)、「宮城郡七十八村」、「桃生郡三十九村絵図」(東北歴史博物館所蔵)「仙台市全図」(東洋造書館)『宮城縣史二七・風土記』 (松島町中央公民館所蔵)『新訂おくのほそ道』角川ソフィア文庫『詳考 奥の細道 増訂版』鞄栄社ほか