▲奥の細道芭蕉館TOP > 奥の細道(宮城) > 02塩竃・多賀城編
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藩政初期の塩竃村を画いた塩竃・松島図屏風絵 【福岡市美術館所蔵黒田資料より転載許可】 |
「奥州名所図会」の文治の搭 (東北歴史博物館転載許可) |
1、
はじめに
国の天然記念物に指定されている塩竃桜 |
「文治の塔」 |
![]() 大正初期の塩竃町【小川澄夫氏提供】
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写真右上:塩竃神社の前にある「文治の塔」ですが、芭蕉が訪れたときは楼門前に位置していました。現在は仙台藩内の俳人44句作が刻まれた石柵に囲まれています。
写真右下:芭蕉主従は小舟を貸切り、塩竃と松島の中間に位置している「櫃が浦」を通過しました。
2、藩政初期の塩竃街道
幕府は全国津々浦々まで伝馬制を発令し、全国諸大名に藩内の脇街道(公道)にも一里塚を築かせ、人馬による宿駅間を結ぶ陸上交通路を支配しました。こうして仙台城下から塩竈への道は塩竈街道とよばれ、原町、燕沢一里塚(仙台市宮城野区燕沢3-204)、今市橋、南宮一里塚(多賀城市南宮一里塚110)、市川橋、総社宮を経て湯壷に大日向一里塚(塩釜市大日向109)を築き、正保年間の国絵図には原町より3里22丁48間と記されました。一方、近世後期は安永年間の「風土記御用書出」(以下『風土記』)に、原町から湯壷(大日向一里塚)を経由し3里半と記されているので、後期の宿駅は一里塚から半里の位置となります。初期の正保年間には高札場が一箇所(七曲坂入り口)であったことが読み取れます。初期の22丁48間と後期の半里(18丁)には4丁48間(約500m)の差異があります。塩竈宿は元禄12年以降(1700)海の埋立工事に伴い、後期の船着場は「四方跡」【註3】より東・海側へ移設され、宿駅内(高札場)も東側・門前に移りました。以下、二つの『塩竈市史』などから往時の古道を考証します。【塩竈町方留書・貞山公治記録参照】
『風土記』によると塩竈村は東西の陸地は18丁を越えると海になる地勢です。塩竈村旧公図(明治19年作成)を基にして村境西側の湯壷(大日向一里塚)から22丁48間(2485m)を実測・照合した結果、鳥居原から「四方石」へ下る江尻坂は、およそ18丁(約1900m)で正保の国絵図に記された宿駅里程に及びませんでした。
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安永の『風土記御用書出』 |
現在位置 (備 考) |
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東 |
高城本郷海上境塩竃・内裏嶋 |
塩竃市内裡島【だいりじま】 松島湾内 櫃が浦付近 |
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西 |
市川村境塩竃・湯壷一北 |
塩釜市大日向110(調査中)、 大日向一里塚は大日向109番地 |
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南 |
留ケ谷村境塩竃・野田 |
塩釜市(調査中) 「野田の玉川碑」は袖野田1−1 |
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北 |
春日村境塩竃・一本松 |
塩釜市(調査中) |
現在でも宿駅の名残として「四方跡」には享保16年(1731)十月と刻まれ、東西南北の地名が記された道標が残されています。【七曲坂下・現在の神輿套堂(みこしさやどう)】また、『奥塩地名集』・祓川の記載に「越後屋前街道往還・・・・」と明記されていることから、初期(慶長年間から享保前期まで)の塩竈宿駅は「四方石」に置かれたと思われます。この調査にあたって、他に大日向一里塚から22丁48間の里程を満たす塩竃の里道【道幅1間半(2.7m)】は明治17年陸軍測量図より特定出来ませんでした。結論として大日向一里塚から鳥居原経由で代官所に沿って白坂を下り、釜の前を西側に戻って七曲坂下・四方跡まで22丁48間の道が藩政初期の塩竈街道で芭蕉もこの道を歩いたと思われます。
【註3】塩竈昆布所 越後屋喜三郎 享保16年 四万跡(よもせき):北・七曲坂、南・御臺の橋、西・御腰掛石、東・七曲水戸(みなと)と刻まれた石碑が現存している。
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| 「塩竃市史」より 緑に塗りつぶされた地域は、芭蕉が訪れた元禄二年は海であった。朱色の部分が街道である。 |
3、
近世後期(安永年間)の街道
『塩竈市史』を始め、史書には赤坂、西町経由の塩竈街道は元禄13年以降(1700頃)に開通したと記され、芭蕉が來塩した時の宿駅は七曲坂下「藩倉」に隣接し、その後(早くとも享保10年以降)「四方石」から東側に船着場が移動したのに伴い、安政年間になると門前置かれたと思われます。塩竈街道は総社宮を通る点は共通ですが、初期(一里塚から七曲坂下)の22丁48間と後期(一里塚から赤坂、西町、門前)の半里との里程差異4丁48間(約500m)の道を検証してみました。その結果、元禄末期(1700頃)になって二井町北側と南町東側、下本町【現在の佐浦酒造東側】が埋立られ、一里塚から赤坂、西町を経て門前(現在の壱番館向かい北側)が近世後期(安永年間)の高札場・宿駅と思われ、里程実測の結果、大日向一里塚から現在の塩竃市役所・宮町分庁舎までが半里でした。この里程は、『風土記』の里程と合致します。【国分原町への道一筋、湯壷坂長さ30間赤坂市川村への通路】。さらに『宮城郡誌』塩竈町の「塩竈町役場起点 多賀城、岩切村を経て原町にいたる3里18丁」とも一致します。現在の市役所・宮町分庁舎が明治の塩竈町役場跡地です。
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4、
歴史的意義:源 融 と 松尾芭蕉の足跡
藩政後期の検断は門前の、現在の塩竃市役所宮町分庁舎(明治初期の塩竃町役場)に塩竈宿駅(高札場)と共に移り、もう一つの検断は神社前付近の表坂前に設けられたと思われます。これまで多くの資料がありながら、芭蕉が歩いた塩竈街道の実証が果たされなかったことは、歴史的意義のないことと受け止められてきたからでしょうか。多賀城と塩竈を結ぶ道は宮城県を代表する歴史的文化を内包する道であり、「奥の細道」を『おくの細道』と自書した作品が俳諧文学最高傑作と語り継がれる以上、里程も短く、往時の面影が失われても、源 融と松尾芭蕉の足跡は後世に伝承されるべき歴史的文化と信じたいのです。
今回の調査に際して塩竈市役所・阿波光浩氏から関係史書のご教授を頂き、古道実測に際しましても現在の塩竈市文化財保護委員長・小川澄夫氏にご同行頂きました。心から感謝を申し上げます。また、鳥居原から「四方石」・江尻に下る『市史別編V』の街道解説や『東奥紀行』に描かれた「仙台道路」は、多賀城(市川村)に通ずる近世以前からの道と推察され、浮島、野田の玉川、思わくの橋、末の松山、沖の井に至る歌枕を辿った道【多賀城の芭蕉道】と併せて調査を考えています。
| 多 賀 城 の 芭 蕉 道 | ||
| 『仙台郷土研究』通巻272号 平成18年6月発行 「多賀城の芭蕉道」より 京野英一 |
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| 「奥州名所図会」の岩切・東光寺前(東北歴史博物館転載許可) | 「奥州名所図会」の八幡村の絵図(東北歴史博物館転載許可) |
画工・北野屋加右衛門が記した絵図をもとに、元禄二年(1689)五月八日朝、仙台城下を後にした松尾芭蕉はいよいよ陸奥の代表的な歌枕を訪ねます。『松島眺望集』に少なからず影響を受けたと思われる一行の旅は塩竈街道を経て、治兵衛の宿に着いた後、多賀城の歌枕を訪ね、再び宿に戻るわけです。『おくの細道』(芭蕉自筆本)に記されたこの日たどった歌枕は奥の細道、十符ノ浦(岩切村)、壺の碑(市川村)、浮島(浮島村)、末ノ松山、沖ノ石(八幡村)、安倍ノ松橋【おもわくの橋】(留ヶ谷村)、野田ノ玉川(塩竃村)です。前回「塩竃街道」(『仙臺郷土研究』通巻270号「塩竃街道の考証」)を報告しましたのでここでは「多賀城の芭蕉道」として芭蕉の足跡を調査・報告したいと思います。
果たして一行に贈られた歌枕の道はどのようなものであったのでしょうか。曾良の「名勝備忘録」には「沖の井、八幡村・・・塩竃より三十丁程有。市川村の東二十丁程也」の記載があります。
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右の絵図:『塩松勝譜』 |
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| 末の松山 | 壺の碑 | ||
2、藩政時代の古道
『奥州名所図会』、『塩松勝譜』などによると近世後期における塩竃と城下を結ぶ塩竃街道以外の古道は「
八幡通
」と通称されました。天童家に残された八幡村屋敷絵図(天和二年の図)や御分領中郡村絵図を参照すれば、野田の玉川から留ケ谷村、八幡村を経て誓渡寺、福田町、船曳堀、苦竹村へ通じる城下までの道と思われ、現在の国道四五号界隈の道と推察されます。もう一つは末ノ松山(八幡村)を経由しない「
七濱道
(
」とよばれ、原町、苦竹村「藩倉」から蒲生経由で中野村、大代を経て七ヶ浜(もしくは塩竃)に通じた海産物輸送を主とした七北田川下流域
舟運
(
の道です。
前者・八幡通は貞享二年(1682)、蒲生に代わって塩竃が藩の外港として加護が施されことや、藩主綱村の意向で三千風一門による歌枕の道としても整備されました。『陸奥鵆(むつちどり)』(元禄九年 天野桃隣)や『奥羽日記』(元禄四年 丸山可澄)などの文人が残した塩竃宿から八幡村に至る「いずれも道続き」の道と推察されます。後に塩釜村『風土記』の名所に「当郡八幡村江之街道 野田の玉川」と明記され、八幡村『風土記』にも「塩竃町江之道一筋」と記され、寛永四年(1627)の石碑が八幡橋南橋元土手に、元治元年(1864)の三山碑が留ケ谷清水に現存します。中世のころ、八幡の荘園と塩竃神社を結ぶ古道に由来するものと推察されます。
![]() 昭和27年発行の塩竃市消防署発行の地図 明治38年の国土地理院地図 |
『おくの細道』(芭蕉自筆本)によると「・・・それより野田ノ玉川、沖ノ石を尋ぬ。末ノ松山は寺を造りて・・・」と記され、随行者・曾良の日記には左記のとおり記されています。
さらに、曾良の「名勝備忘録」には塩竃より三十丁と記された事から、多賀城に至る芭蕉道は、仙臺城下から塩竃街道を経て岩切村「奥の細道」・「十符の池」に立寄り、【壺の碑】を書き写す等して塩竃に着いています。治兵衛の宿で遅い昼食をとり、お釜神社を見て白坂から前述のとおり、およそ三十丁(約3300m)の沖ノ井に至る「八幡通」をたどり、夕方宿に戻ったと推察されます。 左記の『塩松勝譜』付図には塩竃街道、八幡通、七濱通と思われる道筋が画かれており、加右衛門が芭蕉に贈った絵図に近い資料と推察されます。「八幡通」と推察される古道は塩竃宿と八幡村を最短距離で結ぶ留谷村を縦断する道です。明治初期の塩竃村「皇国地誌図」などに画かれ、明治三八年の国土地理院地図や昭和二十七年発行の塩竃市消防署発行の地図などに遺されていました。筆者は芭蕉主従をしのびながら、これらの地図を携えて歌枕の道をたどってみましたが、所々区画整理のため道は変わっていました。多賀城留ケ谷と八幡橋に藩政時代の石碑がわずかに往時のおもかげを物語っています。
■ 末の松山:紀行文構成の中で最長が松島の648字、次に象潟の459字、平泉432字と続く。芭蕉の句作は900余首を越えるが、本文には63首(曾良の句を含む)が詠まれている。目を引くのは象潟で曾良が詠んだ句である。 岩上にみさごの巣を見る 波越えぬ 契りありてや みさごの巣 曾良 「小倉百人一首」に、清原元輔の「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」と詠まれた通り、決して波を越えないという固い約束があって、みさごは海岸の岩上に巣を作っているのだろうと理解されるが、みさごは「海の鷹」とよばれ、夫婦仲のよい鳥(一夫一婦での繁殖)で人里はなれた厳しい自然環境でしか生息しない準絶滅危惧に指定されている。近隣のみさごは奥松島・嵯峨渓のシンボル「みさご島」に生息している。本文に多賀城では一句も詠んでいないが象潟で松島を対照にして、曾良が「末の松山波越えぬ」を詠んでいるのは注目に値する。百人一首に撰ばれた陸奥の和歌は「末の松山」と「雄島」の2首だけである。元禄以降の松は9本と記され、現在残されている2本の松は樹齢450余年といわれている。
天明7年(1787)の歌碑が塩竃市袖野田1番地に遺されましたが、塩釜市の都市計画により堤も埋め立てられ、歌碑は民有地に登記変更され、往時をしのぶことが出来なくなりました。川沿い西側は矢作ケ舘(やはぎがたて)跡の発掘により奈良・平安の土器や瓦が遺されており、往時の古道と推察できます。
夕されば潮風越して陸奥の 野田の玉川千鳥なくなり(能因法師・新古今和歌集)
(夕方になると海から潮風が吹いて来て、みちのくの野田の玉川に千鳥が鳴いています。)
「野田の玉川」にはもう一つの歌枕「おもわくの橋」が架かっています。 ふままうき紅葉の錦ちりしきて 人もかよわぬおもわくの橋(西行法師・山家集)
(踏むことが心憂くと思われる紅葉の錦が一面に散り敷かれ、人も思いはばかって通らないおもわくの橋よ) |
| 前述の「塩竃街道の考証」(『仙臺郷土研究』通巻270号)とともに、千年を越える郷土の道がより正しく理解され、遺されることを切望します。これまでの調査に際し、多賀城の熊谷山里氏の行届いた協力と本文転載にあたり文秀堂さまにお礼を申し上げます。 2006年10月10日作成 | |
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