▲奥の細道芭蕉館TOP > 奥の細道(宮城) > 2007/1 松島町 京野英一 (仙台郷土研究会員) info@malkyo.com |
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● 『おくのほそ道』に関係した書物は数え切れない。この作品に描かれた松島の表現は最高峰の傑作と言われている。本文にもあるが「いずれの人か筆をふるい言葉を尽くさん」そのものである。曾良の随行日記によれば松島には1泊滞在だが、紀行文は2泊3日に誇張され、松島の景勝を「扶桑第一の好風」と褒め称えている。往時の松島は現在と趣を異にしているが、可能な限り往時を偲べる松島を紹介したい。ここでは上記3点に注目し、ふるさと・松島の『おくのほそ道』を述べてみたい。 はじめに:『おくのほそ道』【素龍本】の索引に注目してみた。繰り返し使用されている単語【名詞】の中で、8度以上を拾い集めてみると20の言葉がある。紀行文に相応しい自然、風情を表す「秋、雨、草、月、花、道、山」という7つの言葉と、旅に関連した「馬、日、所、人、者、舟(船を含む)、宿、寺」の8つの言葉である。筆者が注目したのは残る「跡」(15箇所)・「心」(12箇所)・「松島」(9箇所)・「昔」(9箇所)・「世」(9箇所)の5つの言葉である。これ等が紀行文のキーワードと単純に断定は出来ないが、芭蕉の主張を理解するうえで、きわめて重要な役割を醸し出していると思われる。 |
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「森田純画刻 版画本讃おくの細道全四巻 文秀堂 岩手県奥州市水沢区久田22−3 E-mail :bunshudo@mx51.et.tiki.ne.jp」 |
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| ● 第2に、 作品全体を1枚の文章にまとめた見た(下記)。本文中、黄色枠内が仙台藩内(白石から仙台、松島、平泉、岩出山までの13泊)の部分で、全体の4分の1を占めている。さらには全行程150日の紀行文であるが、わずか1日の滞在であった松島は作品中最長の文章(648文字)でつづられていて、全文のおよそ16分の1を占めている。宮城県は山形県に比べて芭蕉はあまり興味を示さなかったと言う見解を述べる人がいるが決してそうではないと思われる。山形県での俳句は名作が多く、宮城県は紀行文として傑作であると筆者は認識している。 |
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| ● 第3に 「松島」が登場するのは6箇所(冒頭・江戸、日光、仙台、塩竃、松島、象潟)であることから、旅の目的として芭蕉自身がいかに期待を込めていたかが伺われる。通説によると、松島で俳句を詠んでいない点が謎とされているが、実際は「島々や千々に砕きて夏の海」を遺している。前年の元禄元年(1688)には「朝よさを誰がまつしまぞ片心」、さらに天和二年(1689)には「武蔵野の月若ばへや松島種」を『松島眺望集』に投句している。本文には曾良の作品「松島や鶴に身をかれほととぎす」が詠まれている。 ● 『おくの細道』で芭蕉は「かるみ」という蕉風俳諧の確立を成し遂げたといわれているが、その契機となった決定的な舞台は「千歳の記念」と重複して記した多賀城碑「壺の碑」と平泉「光堂」であろう。芭蕉が慕った西行は、見仏上人を慕って松島を目指した人物の一人である。この旅の目的は、西行が「中世の奥の細道」を辿って松島に至った足跡を偲んだ追体験であったといわれている。文明18年(1486)に、道興准后が記した『廻国雑記』には「奥の細道、松本、もろおか、赤沼、西行がえりなどいう所々をうちすぎて松嶋にいたりぬ」と記された。紀行文に松島を数多く登場させたのは、古くから松島に通ずる歌枕の道:「奥の細道」と「松島の月」に深い感銘を受けた理由からであろう。したがって芭蕉は、中世以降の古道・奥の細道を書名に決定したと推測できないだろうか。 |
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1、芭蕉が訪れた場所 |
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● 芭蕉は雄島からの帰り、五大堂に向かう。九日月であったが間違いなく月は海に映っていた。 左上の写真は、見仏上人が修行した雄島の北:妙覚庵跡からの冬月である。 【写真は、「松島町の文化財」平成15年松島教育委員会編より転載】 |
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● 瑞巌寺 「見仏聖(けんぶつひじり)の寺」とは長治元年(1104)、見仏上人が雄島で12年間修行した「妙覚庵」であろう。後に弘安8年(1285)頼賢も島の外に出ることなく、雄島で22年間修行したと伝えられている。島の南には中国の著名な書家、一山一寧が記した「頼賢の碑」が徳治二年(1307)に建立された。双方ともに瑞巌寺住職ではない。芭蕉が本文で「11日、瑞巌寺に・・・見仏聖の寺はいづくにやと慕はる」と記したのも西行が慕った人が見仏上人であったからであろう。【おことわり:瑞巌寺の紹介は下記に別記した】 頼賢の碑 国指定重要文化財の碑は雄島の南端にあり、写真左上の六角形の覆堂に収められている。頼賢は22年間島を出ずに修行した。見仏上人の再来と仰がれた僧で、中国・元の使者として在日した。鎌倉の建長寺住持:一山一寧(寧一山)に撰文を請い、高さ約3m、幅約1〜1.3m(上部が狭い)、厚さ約0.2mで、2つの龍の彫り物で上下に仕切られた碑を建立した。上部は真ん中に梵字があって、右に「奥州雄島妙覚菴」、左に「頼賢菴主行實銘 並序」の文字を刻み、下部に「巨福山建長禅寺住山唐僧一山一寧撰」の文字と撰文が刻まれている。曾良の日記に記されている。 一山一寧は(いっさんいちねい) 1247~1317:中国出身の臨済宗の渡来僧。 1299年来日。元(中国)の成宗の命で九州太宰府に来着し、希代の名僧と認められて鎌倉建長寺に招かれ建長寺住持に。 1302年、円覚寺住持も兼任。 1313年、後宇田法皇の招請により京都南禅寺に招かれ三世となりました。 南禅寺にて没する。 |
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● 松島の芭蕉宿発見・・・・・・(瑞巌寺総門前西側一帯) 松島を訪れた芭蕉と曽良の二人が宿泊した「宿屋跡」が平成15年に、初めて明らかになりました。 芭蕉の門人・曽良の随行日記には「久之助の宿」と記されていますが、最近まで特定することが出来ませんでした。 |
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| ● 『奥州名所図会』巻ノ四によると「この大門に続く町を洲崎町という。皆宿屋にて、扇屋、菱屋、熱田屋といえるは、貞享の昔、俳諧行脚芭蕉の宿せし跡にて、今なお客舎なり」と記されている。 以前から芭蕉の松島宿が,この3軒のいずれであるかを特定できなかったわけです。筆者の調査の結果、平成15年に、「久之助の宿」が熱田屋であること、それが下記の場所であったことが熱田屋の末裔に当たる蜂谷様の協力で明らかになりました。 筆者の一里塚調査の途中、明治5年に実施された廃藩置県に伴い、扇屋、菱屋、熱田屋の地番が明治7・8年に大区小区制のもと、29-9、29-7、荒蕪地(番外8)の3箇所であったことを確認できました。このことから、熱田屋は廃業のため土地を手放したので、荒蕪地表記になったことと、蜂谷家の当時の過去帳の年代が一致したのです。熱田屋はそれまで「造り酒屋」も営んでいたようですが、瑞巌寺の寺侍として古くから遣えた家柄でした。今でも瑞巌寺には室町時代の能面が保存され「八屋(蜂谷)七郎衛門の寄進」と墨書されています。また熱田屋の商標は「○に久」となっており、菓子椀や半纏にも記され、現在大切に保存されています。なお菱屋、扇屋の商標には「久」は使用されたことはありません。蜂谷家は、代々「久」の名前を継いできたことで確認できました。 |
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2、芭蕉の松島道: 松島海道(塩竃から松島までの航路:およそ2里余)と石巻街道(仙台城下・北目町から石巻本町までの脇街道:13里24丁30間) ● 左写真が現在の地図です。左坂で左が涌谷・登米道(赤線)で右が石巻街道(緑線)に分かれます。 ● 右写真が明治24年の松島地図:黄色の線が石巻街道で、赤の線が作場道・古道です。下の写真に松島村の部分を拡大しました。 |
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| 3、往時を偲ぶ松島村 松島は仙台藩内22郡のひとつ宮城郡に属していた。その宮城郡78ケ村は仙台城下を含め、最も重要な位置を占めていた。浜方宮城郷32村、陸方国分郷三十三村、高城郷十三村の大きな3区に別れ、高城郷十三村は現在の松島町より広く、湾内の浦戸諸島:寒風沢と野の島、利府町の赤沼を含む地域で、松島村もそのひとつであった。 元禄年間に発刊された『国花万葉記』によると日本橋より福島まで71里と記されている。奥州街道の福島から仙台・北目町まで22里、それより高城本郷一里塚まで7里なので、筆者の調査でここが「百里目の一里塚」と思われます。さらに、文政三年(1820)の桜田鼓缶子が著した『松島図誌』によると、「路程 江戸より松嶋まで九十九里 仙台城下より六里半」と明記されています。曾良の随行日記によれば「松島立ち、馬次ぎにて高城20丁ばかり」と記されていることからも、藩政時代の江戸・日本橋より高城本郷村までの道程は「百里」であったことは疑いの無いところと思われます。平成15年3月1日松島高校の卒業式に案内板を立てました。 |
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| ● 写真左が今も残る松島の旧街道・石巻街道・一ノ渡(根廻)です。 松島高校に立つ「江戸から百里」の案内板。 ● 写真右側は文化年間、谷 文晁の描いた『日本名山図会』より:「金華山 在陸奥州 牡鹿郡」と記されている。 ![]() 宮城県広報誌「県政だより」平成17,2月号より転載 (松島町 京野武男氏所蔵) ![]() ■ 左上は磯崎から高城への絵図:塩田と蛇が橋が描かれている。 ■ 写真中央は「七むじり坂」を調査して上下堤一里塚発見の手がかりを得た調査団です。左から、鈴木亨氏、筆者、高倉淳氏、三崎一夫氏、菅原進氏、撮影は関 智氏でした。この調査で松島の芭蕉道が明らかになりました。以前は別のルートが通説になっていました。右側写真が廃道になった「七むじり坂」の左坂です。 |
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| ● 五大堂 大同二年(807)、坂上田村麿の造営による毘沙門堂と伝えられ、天長5年(828)慈覺大使が延福寺(現在の瑞巌寺)開山のとき、五大明王を安置した。後に藩祖政宗公が慶長9年(1604)、現在の単層屋根宝形造り(ほうぎょうつくり)の本瓦葺で、内部には彩色を施した家形厨子を配している。『みやぎ郷土小事典』菊地勝之助著参照 筆者は、五大堂改修の方丈による屋根の形状が金華山の峰と相似形をなしていることをこの目で確認した。即ち、政宗は瑞巌寺正面の海岸線から金華山を遠望したとき、五大堂の屋根が重なることを承知していたと思われます。また、8月15日(中秋の名月)に瑞巌寺の縄張をしたことも月の光が永遠に参道を照らすことも配慮していたのです。こうした「永遠の理想郷」と念じて松島の自然を活かし、安土・桃山様式を取り入れた建築は政宗自身の類希な才能だったことにいまさらながら驚きを隠しきれません。政宗公以前の瑞巌寺がどこに位置していたのか? この疑問はいまだに解明されていません。 なお、五大明王は33年に一度だけ、開帳され、平成18年8月に行われました。次は平成51年まで待たねばなりません。 |
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● 五大堂の御開帳記録・・・・3日間行われた「御開帳」には全国から沢山の見物客が訪れました。右写真の入場券は8月20日最終日18567人目の筆者のものです。期間中は好天にも恵まれ、炎天下2時間待ちの長蛇の列を成していました。予定人数を越えて入場券が間に合わず、急きょコピーした入場券でした。およそ2万人が訪れたと思われます。次回の御開帳まで長生き出来るように努めたいと思いました。33年後、松島町の同級生500人のうち、さて何人がお参りできるでしょうか・・・・・。
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●瑞巌寺 瑞巌寺の正式名称は、松島青龍山瑞巌円福禅寺という。写真の紅白の梅は、臥竜梅(がりゅうばい)とよばれ、政宗が朝鮮出兵のとき持ち帰り、慶長14年(1609)瑞巌寺の上棟式に植えたものである。天台宗・延福寺から北条時頼により禅宗・円福寺(建長寺派)へ、さらに伊達政宗によって臨済宗・妙心寺派の瑞巌(永遠の理想郷)寺と変わり、今日に至っている。『瑞巌寺の歴史』堀野宗俊著を参照して、瑞巌寺の経緯を簡略に記した。 ■天長5年(828) 天台宗・延福寺 開山 慈覚大師・・・・・・【神亀元年(724)国府多賀城開府、弘仁11年(828)塩竃神社の初見】 ■長治元年(1104) 見仏上人 雄島・妙覚庵にて修行・・・・・【文治3年(1187)藤原忠衡、塩竃神社に鉄灯篭寄進】 ■正元元年(1259) 法身禅師【真壁平四郎】(1世)臨済宗・円福寺開山・・・・・【京都の歌人・藤原定家「小倉百人一首」を詠む】 本文には「当寺32世の昔、真壁平四郎」とあるが、瑞巌寺の見解によると法身は臨済宗開山の一世である。現在は130世の起雲軒 吉田道彦住職である。 ■慶長9年(1604)8月15日 伊達政宗 瑞巌寺縄張、慶長14年完成、以後2度松島を訪れる。・・・【慶長8年 家康江戸開府】 ■寛永13年(1636) 臨済宗・妙心寺派 瑞巌寺 雲居禅師来松(99世) 政宗の百ケ日忌営む。以後藩内で開宗、中興(改修)した 寺は17に及び、全国では最多の173を数えた。雲居禅師は江戸時代における禅宗最大の高僧とよばれた。 ■元禄2年(1689) 5月9日 松尾芭蕉 来松・・・・・・・・・【貝原益軒、日本三景の初見】 ■元禄15年(1702) 弟子去来、京都・井筒屋より『おくのほそ道』(素龍本)刊行・・・・・【元禄14年赤穂浪士の吉良邸討ち入り】 ■平成8年(1997) 芭蕉自筆本『おくの細道』発見。俳諧紀行文による新しい古典文学の創作と世界に認められ、現在に至る。
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| ● 『おくのほそ道』と松島について 周知の通り、この紀行文は松尾芭蕉が記した俳諧紀行文の最高傑作です。芭蕉は俳諧紀行文としての詩魂を高めるため、心血を注ぎました。とりわけその代表舞台を松島(見仏聖の雄島、法身禅師の瑞巌寺、月松島、「百人一首」の松島など)に求めたのは、西行をはじめ中世の歌人が残した歌枕遍歴を主目的としたからでありましょう。当時(31文字の和歌)としては創作に満ちた(17文字)新しい古典文学の誕生だったに違いありません。紀行文の主題は、旅の事実を越えた風雅の新世界に求め、普遍的なものを尊ぶ「不易流行」という理念を築き上げたのです。「かるみ」という蕉風俳諧の完成(侘、栞、位、細の体得)は、松島を目指した『おくのほそ道』によって成し遂げられたと言っても過言ではないでしょう。 ● 終わりに・・・ このように芭蕉が訪れた松島は、仙台藩の手厚い御加護のもと、清閑な名勝地であると同時に、霊場のたたずまいであったわけです。紀行文には余すところ無く、「昼の松島」と「月松島」の自然美が描かれています。ところで平成15年現在、松島町の指定文化財は国、県、町を含めて123を数えます。『おくのほそ道』の松島は、日本文学の最高峰といわれる美文調で記され、作品を上回る表現描写は未来にも存在しないだろうと思われます。近年「世界遺産」という言葉をよく耳に致しますが、作品は日本固有の歴史的文学と蕉風風雅の情緒に満ち溢れています。筆者は「日本三景を越えた」特別名勝地(京の都以前の文化財も遺している)ふる里・松島に生まれ・育ったことをこの上もなく誇らしく思えてなりません。 ■問合わせ、ご意見など・・・お気軽にメールください。info@malkyo.com 京野英一 (仙台郷土研究会員) ■ トップページ・松島芭蕉館に戻る ■ サイト・トップ 「奥の細道 宮城」に戻る |
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