第三章 松島の月 〜松島の月こころにかかりて〜


左写真:1604年伊達政宗が改修した現在の五大堂  右写真:松島の芭蕉宿【熱田屋】から眺めた松島湾 

奥 州 松 島 に て   

   島々や 千々に砕きて 夏の海

                           芭  蕉    元 禄 二 年    

日本を代表する景勝地、心に残る名勝は?・・・と百人に聞いてみると、富士山・京都・松島・尾瀬・・・・。時代の移り変わりで最近の順序は異なっても、ベスト・テンに必ず顔を出すのが松島です。ところで名勝とは? と改めて問われると言葉が詰まってしまう人が多いのではないでしょうか。 

 さらに特別名勝は?・・と聞かると、戸惑ってしまう人が多い筈です。私は松島住民なので松島が特別名勝ですと即答できましたが、日本に特別名勝はどれくらいあるのでしょうか? 調べてみますと全国に三五ヶ所だけです。およそ半数が京都近隣のの神社仏閣です。北海道には一つもなく、東北は十和田湖《青森》、毛越寺《岩手》、松島《宮城》の三箇所だけです。観光地の来客数とは関係なく、特別名勝とは日本を代表する歴史的・学術的に際だって優れた自然や建築物で、後世に残されるべき資産なのです。したがって、東京ディズニー・ランドや六本木ヒルズなどの集客施設とは別の世界なのです。問題は、現在の松島に関る観光業者や行政関係者の人達が、単なる集客数のみを優先した施策に陥ってはいないだろうか? と言う点です。 

 松島は国・県・町指定の文化財が百二十三を数え、其の他遺跡登録を含めると、歴史的文化財の宝庫と言っても過言ではない、貴重でしかも広範囲な特別名勝地です。更に松島を日本三景とまで名を高めた最大の功績者は松尾芭蕉の『おくの細道』という俳諧紀行文です。さらに往時のおくの細道』がいまだに残されている土地である事を合わせて知る人が極めて少ないのです。したがって、芭蕉が松島の月に憧れ、寝ずに鑑賞したことなど関連業者は知る由もありません。

このような訳で松島の月をご覧くださいと言って夜間営業の店舗が海岸通り《洲崎町と呼ばれた芭蕉宿泊の地》に殆どなく、平然と軒並みシャッターを閉めたままです。行政でも、年に一度だけ、観らん亭を開放して月見の宴を催すだけに留まっています。これが観光地・松島の現況です。  

 一例ですが、松島で鑑賞した月に感動した歴史上の人物を紹介してみます。

              いずれも有名な言葉や詩を残しています。

 一 伊達政宗:仲秋の名月 寛永十二年(1635) 陰暦 八月十五日 68歳    観らん亭

 二 松尾芭蕉上弦の月  元禄二年(1689)  陰暦 五月九日 46歳    熱田屋

 三 正岡 子規:真夏の十六夜 明治二十六年(1893) 七月二八日  26歳  観月楼 

 四 アイン・シュタイン:師走の十四夜 大正十一年(1922)十二月三日 43歳   白鴎楼

 五 昭和天皇:春の十三夜から満月 昭和三十年(1955)四月五日より七日 54歳   松島パークホテル

 

平安時代から、歌枕として慕われた松島の歴史的・文化資産の活用をもっともっと図って欲しいと思います。次から次へと新設される集客施設のブームに踊らされることなく、官民一体となって「松島の月」に、こだわって発信すれば温泉地の魅力以上に、松島の宿泊客は現在より増えていくでしょう。もうひとつ忘れてならないのは「松島の景勝は富山にあり」と言われた江戸時代から絶景の富山を天皇家が始めて松島を訪れた明治九年六月に観覧した史実です。明治天皇の東北巡幸を契機として、仙台藩のご加護から遠ざかっていた松島に、天皇より多大な援助費が投じられたのです。記録によれば、芭蕉宿泊の地・熱田屋は廃業し、門前西側にて荒蕪地となっていた絵図が残されています。さらに百八十名に及ぶ警備の人達は、そのため宿屋以外に分宿を余儀なくされたのです。

話は多少横道にそれましたが、富山から満月を明治天皇がご覧になっていたら、今の 松島は変わっていたかもしれません。それほど知られていない富山よりの名月は、久之助の宿・熱田屋からの眺めを遥かに超えた月見の名所と思われます。記録に残されていませんが大仰寺住職の家族のお話がそれを物語っています。石巻湾が黄金色に輝き、対照的に、島々の影と月明りの湾内の様相は言葉に尽くせない絶景なのです

      

 梅雨の晴れ間、夕方、雲の切れ間から西日がさす夏の空、陽暦6月25日芭蕉の訪れた松島から芭蕉と曽良はこの景色を眺めていません。金華山・田代島・網地島の石巻湾を望む。ここ大高森から50キロ離れた金華山がはっきり見えるのは夕映えの時しかありません。大高森の夕日は松島湾に映えて海を紅色に照らすのです。

■ お問合せはこちらへ 京野 英一

■ひとつ戻る