■昭和天皇が観た・・・・「松島の月」写真は『松島町誌』、『松島町史』通史編より転写、カラーは筆者撮影。
時代:昭和30年(1955)4月5日から7日【十三夜、望月、十五夜】
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| @明治の松島ホテル | A終戦後の松島パークホテル | B昭和27年10月20日 双観山 | C昭和30年4月5日福浦橋 |
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月の出から間もない湾内に月の道が黄金色になって表れる。東の空はまだ明るい頃である。月光の色は次第に銀色に変化していく。昭和天皇は松島パークホテルから松島の月を愉しんだ御様子が新年の御歌からしのばれます。 | ![]() |
松尾芭蕉が憬れた松島のおぼろ月を昭和天皇は3日間御覧になったわけです。仲秋の名月より「寂び」を感じます。今でも春の月が海に映るチャンスはなかなか観ることが出来ません。 |
昭和天皇の主な略歴(松島編)
明治34年(1901):大正天皇の長男として、4月29日夜10:10分誕生
大正15年(1926)12月25日:大正天皇崩御、皇太子裕仁親王25歳で即位、昭和天皇となる。
昭和11年2月26日:2.26事件勃発。昭和13年(1938)7月11日:張鼓峰の国境で日本・ソ連両軍が衝突。『西園寺公と政局第7巻』岩波書店より
天皇語録(37歳):「元来陸軍のやり方はけしからん。・・・・中央の命令にまったく服しないで、ただ出先の独断で、朕(天皇)の軍隊としてはあるまじき卑怯な方法を用いるようなこともしばしばある。・・・・・今後は朕の命令なくして、一兵だにうごかすことはならん」
昭和20年(1945)8月15日正午:太平洋戦争終戦の玉音放送・・・・・・
天皇語録(44歳):8月14日御前会議にてポツダム宣言受諾決定の聖断 下村海南著 『終戦秘史』より抜粋
「反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えに変わりはない。世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。・・・・・・自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。・・・・・・・万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私として実にしのびがたい。・・・・・・・・和平の手段によるとしても素より先方(アメリカ)のやり方に全幅の信頼をおきがたいのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。・・・・・」
昭和21年2月:「全国都道府県巡幸」 神奈川県より昭和29年8月北海道まで (延べ3万3千キロ)
昭和22年2月20日:宮内省、「皇室財産は37億4千余万円。うち33億3千余万円が財産税として物納される」と発表。【9割を国民に】
天皇語録(46歳):「地方巡幸に際して」・・・・・『アサヒグラフ保存版』追悼アルバムより抜粋
「戦争を防止できず、国民を其の災禍に陥らしめたのは誠に申し訳ない。この際、位を退くことも一つの責任の果たし方であろうと思うけれど、私は方々から引き上げてきた人、親しい者を失った人、困っている人たちのところへ行って慰めてやりたい。働く人を励ましてやって、一日も早く日本を再興したい」
昭和22年(1947)8月8日:「戦後巡幸」宮城県をご訪問、 松島町瑞巌寺を訪れる。
昭和27年(1952)10月20日:宮城、福島、山形にて国民体育大会開催で松島町、双観山 B写真参照(この年、特別名勝松島に指定)
昭和30年(1955)4月5日から7日:全国植樹祭ご訪問 松島パークホテル宿泊 C写真参照(伊藤政治松島町長先達)
昭和64年(1989)1月7日崩御(87歳):歴代124人目と伺いましたので、世界で一番古くから続いている家族と存じます。天皇在位62年は後にも先にも、昭和天皇が最初で最後と思われ、最も長くてつらい日本の大仕事でした。改めて畏敬の念をもってこのページを閉じます。
場所:松島パークホテル【AFG写真】
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| F 第2次大戦中、勤労奉仕の松島の乙女たち | G 大正二年営業開始前の松嶋パークホテル |
左写真、松島町在住:浅野紀子様所蔵 右写真、塩釜市在住:小川澄夫氏(現塩釜市文化財保護委員長)所蔵
昭和天皇の作品:昭和31年(1956)元旦 54歳 御歌十五首の一つ
松島にて
春の夜の 月の光に見渡せば 浦の島々 波に影さす
解説:宮城県の迎賓館として、大正二年8月15日に営業を開始し、親しまれた松島パークホテルに昭和天皇は3日間にわたって宿泊されました。大正10年、20歳にてヨーロッパ留学(半年間)を果たし、25歳という若くして天皇に即位され、昭和11年の2・26事件からポツダム宣言受諾までの10年間、日本人として最もつらい責任を46歳で果たした人と存じます。
周知の事とは言え、陛下は松島の月を詠んだ先人の詩歌をものともせず、月を愛でる日本人の心で純粋に詠ったものと思われます。陛下自身最も印象に残った半生の語録をみるとき、『おくの細道』で芭蕉が松島の月を観て「予は口を閉じて、眠らんとしてい寝られず」と本文に記したことを知りながら、松島の月を54歳で詠んだ陛下の心中を思う時、筆者は松島を故郷に持つ人間として、この上もない歓びと誇らしさを禁じえません。(政宗68歳、芭蕉46歳、子規26歳、アインシュタイン43歳、)
松島に関する作品は数限りなくあると伺っていますが、下記の二首を紹介しますが双方とも、実際に松島を見ていない作品です。
応徳三年(1068)ごろに編纂された『後拾遺和歌集』藤原通俊の作品が松島を詠んだ最初の和歌と言われている。
松島や雄島の磯にあさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか
天和二年(1682)に大淀三千風が発表した『松島眺望集』に芭蕉が投句した松島の俳句があった。
武蔵野の 月の若はえや 松島種
筆者の親戚に「林武夫」という松島の歌人がおり、昭和19年に結核のため若くして亡くなってしまいました。北原白秋の一番弟子であったと聞かされました。数多くの作品を残しましたが終戦真近の世相を反映してか、いまだ大きくは発表されていません。残念ながら松島の月を詠んだ作品は見あたりません。しかし筆者が30年ほど前に見つけたお気入りの詩を紹介します。

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松島町だけで123の文化財を抱えていますので、塩釜史、七ヶ浜町、鳴瀬町、利府町を加えた特別名勝・松島の紹介・案内は広範囲になり、とても一人での案内は、物理的にも不可能です。次号は松島に至る街道について紹介したいと思います。題して「宮城の街道と『おくの細道』詳考編」に、ご期待ください。