■「松島の月、先ず心にかかりて」 芭蕉の観た日本のふるさと・・・・松島の月。
『おくの細道』本文に描かれた松島の昼と夜。それは、「扶桑第一の好風・松島」を越えた寂び・栞・位・細みに凝縮された俳諧の風情を「松島の月」に観たのでしょう。昼の景勝を「美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)う」と記し、夜の月は「あやしきまで妙えなる心地はせらるれ」と発句を断念したのです。「月、海に映りて昼の眺め、又あらたむ」と詠んだ芭蕉のみた昼夜の松島(上段が夜、下段が昼の風景)を紹介します。
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@松島の芭蕉宿「久之助の宿」の眺め。 |
塩竈(千賀の浦)から雄島に向かう松島湾内 |
五大堂を「久之助の宿」から眺めた風景。 |
芭蕉が松島を訪れた季節に、毎年一回だけですが「ふる里松島海道の旅」を主催し「芭蕉の道を辿り、往時を偲ぶ集い」を実施しています。「満月カレンダー」を開いていただくと、松島の月の暦が判るようになっています。季節を問わず、月のきれいな夜のみどころが沢山あります。運がよければ画面のような月夜とめぐり合うことが出来ます。松島を訪れるときは、事前にチェックを入れてみてください。前もってご予約いただければご案内いたします。
時代:元禄二年(1689)五月九日(陰暦)陽暦の6月24日 46歳
芭蕉が松島を訪れたのは、「塩釜から舟でお昼頃着いた」と曽良の随行日記に記されている。本文には「12日、石巻」と書き出しがあるので2泊3日の滞在に思えるが、曽良の日記には「12日石巻を出立し、登米に宿泊した」とあり、9日松島泊、10日石巻泊、11日登米泊となるので松島一泊と言うのが定説になっている。九日月の月の出は中天高い月なので、芭蕉には右側の写真@のように見えたであろう。
筆者が、芭蕉の松島宿から陰暦の九日月を撮影した写真@のように、夜8時頃には月明かりが海に照らされるのである。さらに、「金華山も見ゆる」と書いたのは芭蕉のフィクションであり、石巻から金華山は見えないという説が定説になっている。しかし、久之助の宿・熱田屋から五大堂の屋根に比例した金華山が松島から見える(筆者撮影のカメラGHI)こともあわせて理解していただきたい。
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| GGGG金華山が見える。 | H久之助の宿から金華山を見る。 | I瑞巌寺、久之助の宿から五大堂を見ると屋根越しに、金華山が見える。華山が見える |
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| J大正元年ころ、現在の国道45号が整備されない須崎町の二階宿が並ぶ。江戸末期と同じ旅籠の風景と言われている。 | K塩釜の船宿、久之助の二階宿のイメージ | L明治22年、久之助の宿跡の二階造り |
場所:「久之助の宿」・・・・・・ 熱田屋の二階
これまで、松島の芭蕉宿が特定されなかったため、久之助の宿から眺めた月がどのようなものか?どなたも理解できなかったのです。しかし瑞巌寺所蔵資料から、須崎町の詳細な間口を記した見取り図を基に、Kの写真の様に屋敷まで水路が残された旧公図(明治19年)などを手がかりに、Lの建物跡地が熱田屋という船宿・旅籠であることを筆者が突き止めました。左J写真の左端が「松嶋ホテル」で、同じ三階建旅館が「観月楼」です。其の中間に瑞巌寺の総門があり、芭蕉の松島宿・熱田屋は通路を挟んだ西側一画(松嶋ホテルを含む)に位置したと思われます。L久之助の宿の二階(浅野物産店跡)から撮影した陰暦五月九日の写真が@の写真(筆者撮影)です。
作品:『おくの細道』芭蕉直筆本、『おくのほそ道』素龍清書本、
「曽良の随行日記」参照 俳句:なし
松尾芭蕉は、みちのく、北陸の旅を終えて2年後に執筆を始める。松島をたずねてから5年後の元禄7年の春に完成。その年秋に逝去。辞世の句は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」。弟子の去来によって、京都・井筒屋より元禄15年(1702)作品が出版刊行された。
| ・・・月海に移りて昼の眺め又あらたむ。江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそあやしきまでたえなる心地はせらるれ。予は口を閉じて眠らんとして以寝られず。旧庵をわかるる時・・・・ | 「眠らん(ねぶ)らんとしてい寝られず」
「感動のあまり、どうしても眠ることなど出来なかった」 |
| 『おくの細道』 松尾芭蕉直筆本より |
解説:俳諧作品の最高傑作と言われている『奥の細道』は、数多くの文献資料にあふれています。現在では素龍浄書の西村本『おくのほそ道』が一般に定本とされておりますが、平成8年に発見された芭蕉の直筆本『おくの細道』によると冒頭の「松島の月、まづ心にかかりて」は「松島の月、心もとなし」と記されています。直筆本には70箇所以上の訂正箇所があり、どちらが正しいのか判断出来ないのが現状と思われます。
したがって、ここでは「松島の月」に焦点を絞り、芭蕉が憧れた「松島のおぼろ月」と「上弦の月・九日月」をこの目で実際に捉えてみました【写真参照】。松島の私たちは芭蕉の観た月が今日に至るまで、本文にあるように「芭蕉が発句を断念したほど」魅力十分であると思っています。 『おくの細道』の代表舞台は松島であって、昼に眺めた日本一の景勝【扶桑第一の好風、美人の顔(かんばせ)を粧(装)う】を上回る存在が、松島の観月体験であったと推察しました。「松島の月」の体験が、『おくの細道』の核心と言っても過言ではないでしょう。
芭蕉は150日に及ぶ、600里(2400K)の旅を終えて、最も印象に残った「松島の月」を冒頭に配した構成は、奥の細道の印象をより一層高めました。芭蕉が自らの作風完成を「松島の月」に見い出したのであれば、「寂び」「栞」「位」「細み」をいかに極めた作品でも、句を作ることなど到底無理と感じたのではないでしょうか。この世のものとは思えないほど「松島の月」は魅力的な風雅【あやしきまでたえなる心地】だったに違いありません。松島の私たちにとっても、この目で見た「松島の月」は「最高と言う言葉」を越えた、世界に誇れる日本文化の象徴と思われます。
芭蕉は松島で「島々や千々に砕きて夏の海」の句を作りながら、昼の松島には曽良の「松島や鶴に身をかれほととぎす」を配し、「あやしきまでたえなる心地」と言って発句を断念し、自らは月を詠んだ俳句を残しませんでした。芭蕉の俳句がないことで、「松島の月」の素晴らしが一段と誇張され、『おくの細道』のおかげでたくさんの文人墨客が「松島の月」を追い求めました。往時の松島は月夜を求めた客で、大いに賑わいをみせ、伊能忠孝、吉田松陰はじめ、数多くの著名な人達も松島を訪ねました。芭蕉の200回忌にあたる明治26年(1893)、26歳の若き正岡子規は松島の満月を求めて真夏に訪れました。
問:芭蕉は何故、松島で俳句を残さなかったのか? info@malkyo.com